高橋晴邦ストーリー
HOME > 高橋晴邦ストーリー > トヨタ 2000GT (高橋晴邦)
カテゴリー
KAROが指示される理由!

オール トヨタ 2000GT その2

オール トヨタ 2000GT トヨタワークスの若きエース
'69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。
トヨタワークスの若きエース
`69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。

現在は(株)ボクーと(株)カロを経営

 連勝してたらワークスマシンが与えられた

 晴れてレーシング・ドライバーとなった高橋晴邦は、ホンダS800を購入してレースに意欲的に出場した。カムバック第1戦で、いきなり3位入賞を果たし、2戦目でポールポジションを獲得。ダイナミックな走りで注目を集めたのである。この鋭い走りが、トヨタのレース関係者の目にとまり、マシンをカローラに変更した。そして43年にはトヨタのワークスカーが与えられ、ツーリングカーレースで破竹の快進撃が続けられるのである。

晴邦 1年間のブランクの後、レースにカムバックしたんですが、このときにマシンをホンダS800にスイッチしました。ワールドモーターでエンジンをチューンしてもらい、5月の全日本スポーツカー選手権にエントリーしたんです。トヨタやホンダのワークスマシンがたくさん出場してね。このときに3位に入賞したんですよ。Iクラスのウィナーは、ホンダS800の木倉義文で、2位がヨタ8の見崎清志だった。


ルックスもよく、速いドライバーだった。  ボクはそのころ、TMSCに所属していたんです。でもマシンはホンダだった。どこかのクラブに入っていないとレースをやりづらいからTMSCに入ったんです。最初はヨタ8を買ってレースに出ようと思ったんだけど、そのころにはすでに戦闘力が落ちていた。そこで勝てそうなS800を選んだんだ。
 そして7月のジュニアチャンピオンレースで念願のポールポジションを獲得した。でも、予選で横転したため、本番では早々にリタイアしてしまったんです。
 そのうちに「あいつはだれだ」ということになったんですね。TMSCの人が「あいつはTMSCの会員なんですが、ホンダ車でレースに出ている不届き者なんです」と関係者に話したんですよ。これが縁で、トヨタ車に乗ることになるんです。その年の後半にカローラ1100を買い、12月の冨士12時間レースに出場しました。コンビを組んだのは、舘信秀(当時は舘宗一)でしたね。このときはリタイアしちゃいました。


 43年はこのカローラで全日本ドライバーズ選手権にフルエントリーしたんです。3月の鈴鹿500Kmレースで、TIのクラス優勝を飾り、シーズン後半はワークス・カローラで戦いました。そのころはまだ契約ドライバーじゃなかったんだけど、シリーズチャンピオンになる可能性が出てきたからワークスカーを貸してくれたんです。この年は、菅原さんのミニ・クーパーを振り切って9戦中7戦に優勝しました。もちろんTIクラスのチャンピオンです。
 ワークス1600GTに乗る機会もあり、こちらのマシンでもレースに出場しました。
 トヨタのワークス・マシンに乗るようになると、ワークス・ドライバーとの交流が増えましたね。憧れの的だった福沢幸雄とも話すようになった。彼は本当にカッコよかった。レーサーであり、ファッションモデルであり、当時としては珍しく外国語も堪能だった。

 まだトヨタ自工とトヨタ自販とに分かれていた時代で、自工には福沢や鮒子田寛がいた。自販のワークスは、高橋利昭や川合稔などだったね。ツーリングカーだけじゃなく、グループ7のトヨタ7もあったよね。そして44年の3月に大学を無事4年間で卒業したんです。その1ヵ月前にトヨタと正式に契約しました。トヨタ自販のワークス・ドライバーとしてです。でもそのときに1つ条件を出されたんです。
「晴邦はドライバーとして有望だが、世間知らずだ。だから1年間は社員として九段のモータースポーツ課に勤めてくれ」ってね。だから、レースのないときは、毎日、九段のトヨタまで通っていましたよ。


1|2|34

« オール トヨタ 2000GT その1 | メイン | オール トヨタ 2000GT その3 »

KARO