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オール トヨタ 2000GT その4

オール トヨタ 2000GT トヨタワークスの若きエース
'69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。
トヨタワークスの若きエース
`69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。


ルマンにシグマMC74で挑戦  3Lのトヨタ7は乗りやすかった。

 トヨタ1600GTはそのころは熟成の域に達していたね。初めて乗ったときは「なんてパワフルなんだろう」と思ったけど、慣れると、もっとパワーが欲しくなったね。でも、今から考えると回らないエンジンだったな。あのころのエンジンで、凄い!と思うエンジンはなかったね。どのエンジンも上のほうへいくと止まってしまった。トヨタ2000GTも、スタイリングはよかったけど、凄いエンジンという印象はないね。


セリカLBターボで雨の富士1000kmを制す  トヨタ1600GTの後に、テストでトヨタ7をドライブしたんだ。3Lだったけど、ミッドシップ初体験だったね。「あっ、風が当たるマシンだっ」っていうのが最初の印象だね。当時としては、ボクが乗ったなかでもっとも乗りやすいマシンだった。
 3Lのトヨタ7では、短時間しか乗っていないけど、その後の5Lトヨタ7はずいぶんと走り込んだよ。これは強烈なマシンだったね。まるでエンジンのお化けだよ。
 '69日本グランプリでは、最初は大坪善男と組む予定だったんだ。でも、本番では鮒子田寛とコンビを組みました。ビッグ・エルフォードと川合稔が先行型で、完走狙いの本命はボク達だった。
 5Lトヨタ7はまだまだの仕上がりだったね。300km/hでフジの30度バンクに入っていくとき、ちょっとブレ-キングしただけでボディがすごく振られるんだ。怖かったね。だけど、一部のトヨタのドライバーは、こういった欠点を強力にアピールしないんだね。
 日産のドライバーは、はっきりと欠点を指摘するけど、トヨタのドライバーはそうじゃなかった。みんな仲良くやっていたけど、こういったことになるとバラバラで統一がとれていなかったんだ。
 これがマシン作りにも表れたんだろうね。日産のレーシングマシンは、ドライバーが下駄のように扱えるクルマをめざしていたけど、トヨタのマシンはそうじゃない。キミ達はプロなんだから、このマシンを乗りこなせ、っていう感じなんだよ。
 この点がトヨタと日産の体質の違いでもあるんだ。
 その顕著な例が800psのターボチャージド・トヨタ7だね。ボクは乗っていないけどあれはまともじゃなかった。レーシングカーっていうのは、エンジン、シャシー、ボディ、サスペンションなど、すべてがバランスの上に成り立っていなくちゃダメなんです。パワー至上主義は通用しないんです。プロペラシャフトだってもたないし、開発途上だったんだよね。当時の技術じゃ、まだ無理だったんですよ。
 トヨタ7はあの時点で計画を中止してよかったんじゃないかな。あのまま突っ走っていったら、流れとしてボクは死んでいた可能性が高いね。
 トヨタがグループ7の開発を休止した後、高橋晴邦は、マシンをツーリングカーに変え、レースに打って出る。セリカ1600GT-Rやターボチャージド・セリカの開発も行った。また、富士GCレースやルマン24時間レースにもチャレンジする。49年の富士1000kmレースで優勝を飾り、これを最後に第一線を退いた。


FJ1300に挑戦

ボクの目標はトヨタで世界に飛び出すこと。

晴邦 トヨタ7の開発が中止された後、ツーリングカーに専念することになったから、そちらのほうの開発を行いました。その間に40日間ほど、トヨタから援助してもらってヨーロッパに渡ってレースを見てきたんです。このまま、トヨタでやっていてもダメだから、ヨーロッパに行ったんです。ヨーロッパでF1などのレースを見てくれば、ボクにとってもトヨタにとっても、大いに得られるものがある。そう思ったんですよ。
 ボクの目標は「トヨタをベースに、世界に飛び出す」ことだったんです。これは、シグマ・オートモーティブを設立した加藤真も同じだった。彼はトヨタではもうダメだ、と思って、早い時期に退社して会社を設立した。彼も「トヨタのエンジンで、世界を制す」ことが夢だったんです。夢が同じだったから、ボクはシグマのマシンにも乗りました。ルマン24時間レースに挑戦したのも、これらの理由からですよ。


 このシグマのマシンに乗る前に、ターボチャージャーを装備したセリカLB1600GT-Rの開発も行いました。一般のツーリングカーでは、サスペンションに手を入れることぐらいしかできないけど、Rカテゴリーなら、もう少し改造範囲が広くなる。イメージ通りに作れるから楽しいんですね。本当はミッドシップ・レーシングカーがいいんだけど。
 このセリカGT-Rは、47年5月の全日本鈴鹿1000kmで、なんとか優勝できた。すごい雨のなかのレースで大変でしたよ。
 そして、その翌年には、シグマGC73で富士GCレースに、ノバ01でFJ1300にもチャレンジしたんだ。あのころはトヨタも外国製のエンジンかトヨタ製のエンジンなら、好きなレースができるようになっていた。
 49年はシグマMC74マツダで、ルマン24時間レースにも出場しましたよ。本当はトヨタのエンジンでやりたかったんだけど、エンジンを貸してくれなかったんです。
 50年にはアメリカ留学して、カリフォルニアの大学院に入学しました。以前から外国生活に憧れていたし、日本にいると雑念が入るからね。あの1年はマネージメントの勉強とゴルフに明け暮れましたね。
 その時に、シグマの加藤さんから連絡があり、ヘルメットとレーシングスーツを持ってヨーロッパへと飛んだんです。そのころ、ボクはレース会を引退したつもりだったんだけど、ルマンに鮒子田と組んで行ってしまいましたね。エンジンがトヨタだから迷うことはなかったんだ。これが事実上の引退レースになった。もし、日本のモータースポーツが、今のようにメジャーだったら、もう少し長くレーサーでいたんじゃないかな。でも、すべて30歳までにやることはやったと思うよ。
(文中敬称略)


ブリヂストンがサポートしたシグマ
1 シグマ・オートモーティブの加藤真と志を同じくし、世界に飛び出そうとする。ドライブしているのはチームメイトの生沢徹。
2 現在は(株)ボクーと(株)カロを経営、ゴルフの腕前もプロ真っ青だ。
3 ルックスもよく、速いドライバーだった。だが、引き際は鮮やかだった。
4 TMSC-Rの面々。左から高橋晴邦、見崎清志、高橋利昭、久木留博之、蟹江光正、細谷四方洋。なぜか舘信秀の姿がない。
5 これは珍しいカット。左がサニーを駆る星野一義。右はカローラクーペの晴邦。
6 ルマンにロータリーエンジンを搭載したシグマMC74で挑戦。
7 セリカLBターボで雨の富士1000kmを制す。コドライバーは見崎清志。
8 エッソのスポンサードでFJ1300に挑戦。後ろはマーチを駆る長谷見昌弘。
9 ブリヂストンがサポートしたシグマ。右がチームメイトの生沢徹。


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